プロフィール


宮古湾かき養殖組合 

 

 私たちは宮古漁業協同組合に所属する組合員です。このうち、宮古市磯鶏、同市高浜、同市金浜に住むかき養殖が宮古湾かき養殖組合を結成しています。

 

 

所在地: 岩手県宮古市

 

組合員数: 17名

 

年齢: 30歳~66

    ※平均年齢は50に近い40代。働き盛りです。


設立: 昭和11年

    初代組合長 大槌 吉三  

    

かき養殖組合と津波

 奇しくも「宮古湾かき養殖組合」が発足したのは昭和8年の三陸大津波が契機でした。

 その後も幾多の津波や低気圧の災害が当地を襲っています。津波だけでも

 

 昭和27年3月4日 十勝沖津波(まだまだ日本全体が貧しかった時代)

 昭和27年11月5日 カムチャッカ沖地震津波(収穫を始めたばかりのカキ筏はひとたまりもなく流

          出した)

 昭和35年5月25日 チリ地震津波

 昭和38年10月13日 南千島沖津波

 昭和43年5月16日 十勝沖地震津波

  

 三陸大津波が転機となってかき組合が発足し、十勝沖地震を機に長年の念願であった延縄式施設に改良されました。どちらも津波が関係しており不思議な気がするとともに先代達の苦労が偲ばれます。


【宮古湾でのカキ養殖のはじまり】

・地元の古老の話では明治時代の終わり頃に「泥牡蠣養殖」というものが細々と行われていたそう 

 です。

・昭和5年には岩間寅吉さんが種牡蠣をはさんだ垂下連を譲り受け、山から楢の木の杭を伐り出

 し、養殖を試みたところ大変生育が良かったことから地域に広まっていきました。

・昭和7年に磯鶏浜漁業組合の経営により本格的にカキ養殖が始まる(施設20台)。

・昭和8年に昭和三陸大津波に襲われる。

・磯鶏浜漁業組合が津波被害により直営を断念して、希望する組合員7名であらたにカキ養殖を始め

 る。

 当時を知る伊藤さんの話

 「カキ養殖の資材は津波で流れ着いた梯子丸太を拾い集めて作りました。1人3台づつと決め、

 津波の後片付けが済んでから棚作りに入りました。」

 ※この当時は今と違い、波静かな限られた場所で筏式により養殖をしていました。

・昭和11年に秩父宮様が御来宮になり、当地のむき牡蠣が天覧の栄に浴す。  

【昭和のカキ養殖】

・3月から4月に宮城県から種牡蠣を買ってきてすぐに漁場へ垂下しました。

・垂下縄のかわりに針金を使用し、1連に25~30個の種牡蠣をつけます。

・その後、コールタール染めにした藁縄に種牡蠣を挟み垂下する方法に変更しました。

・収穫はその年の11月からむき始め、ほとんど年内にむき終わっていました。

・収穫の終わった筏は時化で壊れるのが心配なので必ず浜に上げました。

・当時の現金収入は、秋のイワシ網、サケの地曳網、天然のコンブとワカメ、アワビなどが主でした

 が、どれも好不漁があって収入は安定してませんでしたが、カキは冬期間の唯一安定した収入源で

 あったそうです。

・昭和31年。風浪の被害を少なくするため、筏式から延縄式の養殖施設に改良を始める。

・昭和35年5月24日チリ地震津波で惨憺たる被害を蒙る。

 災害復旧の漁船建造については国と県が合わせて2/3、漁協は1/3で全額補助を受けた。

 養殖施設は原型復旧(筏式)から改良復旧(延縄式)を陳情したが、補助の対象にならないため原状

 復旧に甘んじた。

・昭和42年。種牡蠣が板からホタテ盤に変わる。

・同年。春種の垂下の他に秋種の垂下が始まる。

・昭和43年。十勝沖地震津波の際には難行苦行の末、筏式から延縄式に改良復旧。

【カキの販売】

・むいたカキは木の茶碗1杯いくらで女性たちが宮古町などで販売。

 ※女性は毎日1貫目位のカキを背負い、「かあぎをおげあんせーっ。かあぎはよごぜんすかあ。」と

  叫んで売り歩いた

・昭和25年頃までは枡の量り売り主。汽車で釜石にも出荷するようになる。

・昭和26年。枡売りから目方売りに替わる。

・昭和27年11月2日。宮古の鮮カキとして東京市場に初めて出荷。好評を得る。

・昭和27年11月5日。カムチャッカ沖の津波襲来により大被害を受ける。東京市場の出荷もわずか3 

 日で終了する。

・昭和42年。出荷容器が木の樽からポリ容器に替わる。

・昭和50年。東京市場で大粒のカキが望まれていることを知り、2年カキに全員が切り替える。

・昭和53年。出荷容器が発砲スチロールに替わる。